絶対に獣医になってやる
ナイロビの一人暮しが一年に近くなったころ、私は犬を飼おうか飼うまいか悩んでいた。アメリカではしょっちゅう引越しをしていたし、親が辞めなさいと止めていたので、飼えなかった。たった一人で住んでいて、さらに家でも勉強しかしていないさみしい暮らしが一年続いて、家に犬を飼っていたらどんなに励まされるかなんて、飼いたいと思う理由は結構自分勝手だったかもしれない。でも、こんなに勉強が忙しくてちゃんと犬の相手をしてあげれれるかどうかの心配もあり、結局半年ぐらい悩んだあげく、やっぱり私は犬を飼うことにした。調度その時、引越しをする予定だったので、犬が飼える庭がある家も探した。小さいころ犬を飼っていたとは言え、世話らしきことは母がしていたので、飼い方などあまり知らない。ペットの本を読みあさり、獣医学書も読んで犬のかかる病気など勉強しておいた。ちゃんと自分一人で子犬を育てる、そう自信がついた時、子犬を探し始めた。でも、やっぱりあまり大きな犬を飼う自信はまだなかったので、小型犬を探すことにした。
「ジャックラッスル・テリアとダックスフンドのハーフの子犬がいます」獣医のオフィスに張られた広告を見て、私は子犬を見に行くことにした。行ってみると、汚いガレージの中に子犬がうじょうじょいた。聞いてみると子犬は四ヶ月を過ぎていて、そこまで赤ちゃんという訳でもなかった。少し成長して落ち着いてきたころなので、そのぐらいの歳の方がいいかな、そう思って子犬を見ることにした。しかし、子犬が食いついてくるので、足が痛い痛い。食いついてくるのは元気な子犬ばっかりでいいのだが、なんか目つきが悪い・・・。飛びついてくる中には、しっくりくる子犬がいない。ちょっと引っ込み思案の子犬もいた。兄弟達に遠慮しているのか、少し遠回りに私の周りをチョコチョコしている。良く見ると、とてもかわいい顔していて、茶色い眼がなんとも言えなくきれいだった。
「この子が気に入った。」
それがチビだった。未熟児で生まれたらしく、他の子犬より少しばかり体が小さかったので、その家の男の子が「TINY(おチビさん)」と呼んでいた。子犬の名前は、そのまま日本語になおして「チビ」となった。

チビがやってきて半年ほどたったある日のこと。ナイロビでずっとイスを買うお金がなかったので、じゅうたんの上に座った生活をしてきた。ちょっとバイトをしてお金が手に入ったので念願のソファーを買うことにした。初めてソファーがうちに届いたとき、犬達は見なれない物にびっくりして、ソファーの周りを離れなかった。チビなんかは夜遅くなっても外に出ないでソファーの周りでものめずらしそうに臭いをかいだりして遊んでいた。
「チビ、OUTSIDE」
そう言ってドアを開けると、チビはチョコチョコ歩いて他の犬が寝ている犬小屋の方に向かっていった。それが、私がチビの姿を見た最後だった。
「ウンブァ・イメ・トカ!(犬が逃げた)」
アスカリ(ガードマン)の叫び声とドアを叩く音に目がさめた。時計を見ると午前4時。近所の犬がフェンスを壊して、チビとムサシがいなくなったと言う。懐中電灯片手に寝巻きのまま慌ててアスカリと一緒に外に飛び出した。
「チビー!ムサシー!」
大きな声を出して犬達を呼んでみる。返事はない。フェンスを壊した犬の家に行き、向こうのアスカリに聞く。
「うちの犬が逃げたの。そっちの家の犬が外に出ていたでしょ。うちの犬、そっちの家にいない?」
喧嘩好きのチビのことだ、相手の犬を追いかけていって向こうの家に行ってしまった可能性もある。すると向こうのアスカリは変な顔して
「いない。」
と、一言いったきり、いなくなった。家に戻って犬の名前を呼んでいると家のフェンスの下から「ヒンヒン」言う声が聞こえてきた。急いで走っていくと、ムサシがフェンスの間に落ちていた。当時四ヶ月のムサシは一生懸命脱出しようとしている。アスカリの助けでムサシを拾い上げた。怪我はないようだ。チビの名前も呼ぶが、チビは見つからない。
うちの家の下の敷地は工事現場で、そこからは森につながっていた。工事現場のフェンスは穴があり、犬が通ることのできるスペースがある。いくら道を調べてもチビもムサシがいないので、工事現場に住む顔なじみのワーカーのところに行った。事情を話し敷地に入れてもらった。
「チビー!!」
名前を叫び、いつも呼ぶ時につかう口笛を吹いた。真っ暗な森からは何も音がしない。チビは相手の犬を追いかけていってしまったのだろう、しばらくしたら飽きて帰ってくるだろう、そう思い、家に戻って待つことにした。
「チビー!!」
その場を離れる前にもう一度チビの名前を呼んでみた。振りかえって帰ろうとしたその瞬間、遠くでかすかにチビの「ヒーン」という泣き声が聞こえた。
「いた!チビがいた!」
帰ろうとしたアスカリを呼び戻す。再びチビの名前を叫び、口笛を吹いてみた。何も応答がない。私の声を知っているはずである、この口笛の意味も知っているはずである。チビは絶対に言うことをきく犬なのに・・・。何で帰ってこないの・・・。声が聞こえてから10分ぐらいたった時、急に怖くなり、胃がキリキリと痛んだ。
「帰ってこないんじゃない、帰ってこれないんだ・・・。」
きっと怪我してるんだ!探さなきゃ、私から探してあげなければ!懐中電灯を片手に真っ暗な森に入っていった。アスカリが慌ててついてくる。チビの声はその後一回も聞こえない。大丈夫だ、チビは帰ってくる。そう自分に言い聞かせて森の中を歩いた。チビがいなくなったのが四時、結局六時まで森の中を歩いてチビの名前を叫びつづけたが、チビは見つからなかった。私はがっくりうなだれて家に戻った。家に入って一人になると、急に涙が出てきた。
「チビが見つからない・・・。見つけてあげられない・・・。もしかしたら死んでしまったのかもしれない・・・。」
そうつぶやくとソファーの上で一人でわんわん泣いた。いったいどこに行ってしまったの、チビ・・・。
「もう一度探しに行く。」
あたりが薄明るくなってきたのを見て、アスカリに言った。念のためにもう一度フェンスを壊した犬の家に行く。さっき変な顔をしたアスカリはいなく、メードさんが出てきた。犬を探しているので庭を見たいというと、ゲートを空けて入れてくれた。フェンスの横を歩いて、辺りを見渡した。庭には何も変なところはなかった。チビがいる様子もなかった。ここにはいないみたい、フェンスの一番最後の場所についた時、そう思いながら、ふとフェンス越しに隣の家を見た。向こうの家の庭のすみに枯れ葉が集めてある場所があり、その上に子豚みたいに見える小さな茶色い動物がいた。顔は隠れていて、体が変な曲がり方をしている。その動物の首の近くにかけてあった物が見えた途端、私は足の力が抜けてヘナヘナと座り込んだ。目から大粒の涙がこぼれ出始めた。茶色い首輪だった・・・。
「ポレ・・・(かわいそうに)」
泣き崩れる私の後ろから、アスカリが声をかけた。隣の庭に駆け込んでその場に行った。白いチビの体は泥で茶色にそまっていた。力が抜けた手でゆっくりとチビを抱きかかえた。いつも抱きかかえていたチビの重さと一緒なのに、チビは冷たかった・・・。アスカリがチビをかかえて号泣する私を見て、心配した顔をして声をかけた。
「大丈夫だよ、また新しいのを買えば・・・。」
ペットという観念を持たないケニア人の精一杯の慰めの言葉だった。私はさらに激しく泣き出した。
泣きながら泥だらけになったチビの体を洗った。汚くなった姿のままでお墓に埋めてあげたくなかった。洗っていて肩のすぐ後ろで背骨が完全に折れているのに気がついた。腹部には小さい傷跡があった。タライの中の水に濡れてかすかに傷跡から血が流れだした。痛くないように、そっとタオルで拭いてあげた。
「ごめんね、ごめんね、チビ、探してあげれなくて・・・。」
「助けにくるのが間に合わなくてごめんね。痛かったよね、ごめんね・・・。」
声が声にならなかった。私が聞いた声はチビの最後の声だったのだろう。キチガイみたいにチビの名を叫んでいる私の声を聞いて、自分の居場所を知らせるために声を出したのだろう・・・。背骨が折れて苦しくて声なんか出せる状態じゃなかったろうに・・・。悲しくって悲しくって、助けてあげられなかった自分がチビに申し訳なくて、涙がとどめもなく溢れ続けた。
いろいろな考えが頭から離れなかった。チビは壊されたフェンスの間から近所の犬に首輪をとられてさらわれてしまったのだとアスカリは言う。白い体に茶色の斑点模様のチビに似合う茶色の皮の首輪を選んでつけてあげた。私がつけた首輪、そのせいで逃げることが出来なかったチビ。私が首輪をつけていなかったら、逃げられたのかもしれない・・・。最後の声を聞いた時点ですぐ見つけてあげられれば、獣医につれていってあげられて命が助かったのかもしれない・・・。私がもう少し早く獣医になっていれば治療してあげられたのかもしれない・・・。こんな事が起きるなら、昨日の晩ずっと家にいれておけば良かった。外になんか寝かせなければ良かった・・・。私なんかがチビを飼わなければ、チビは他の人に飼われて十ヶ月の人生で終わることなく長生きしたのかもしれない・・・。私の自分勝手なエゴでチビの人生が終わってしまった・・・。
心の奥底では本当は事故だと分かっていた。でも、自分を責めなければやりきりなかった。私が勉強ばっかりの生活で辛い思いしてくじけそうになった時、ナイロビに一人で住んでさみしい時、そばにいるだけで励みになっていた大切に大切にしていたチビが死んでしまった・・・。朝起きても、大学から来ても、いつも一番にすっとんで挨拶してくるチビがいなくなった。歳をとるまでずっと一緒にいて大切にしてあげようと思っていたのに、バイバイも言えないままいなくなってしまった。心に風穴が開いたようだった。もうこれ以上涙が出ないというほど泣いた。
「チビはあすかに飼われて、他の誰に飼われるよりも何倍も幸せな人生を送ったよ。」
そんな言葉をかけられて、さらに涙が止まらなかった。
チビはアニマル・シェルターの動物墓地に埋めてもらった。そこでの死後解剖の結果、背骨の骨折と内臓をつつんでいる粘膜が破裂して内出血からくるショック死だと解剖レポートに書いてあった。背骨は前足の上の位置で真っ二つに折れていた。あんなに泣いていたのに解剖レポートを読む時だけは冷静でいられる自分が不思議だった。レポートを読んで、チビは誰にも助けられなかったと知った。
「どんなに早く見つけてあげても、無理だったのよ。」
シェルターのオバサンの声が頭の中でこだました。その後も、ふとした瞬間でチビを思い出しては泣きはらす日々が結構続いた。すると、
「なんでお前はそんなに弱いんだ?!獣医になりたいんだろう!そんなことでどうやって獣医になるんだ?どうやって他の動物の命をあずかるんだ?獣医になりたきゃ強くなれ!」
その言葉で目が覚めた。そうだよね、こんなに弱くちゃ動物の命なんてあずかることなんて出来ないよね・・・。チビを助けてあげることができなかった、強くなってその分も多くの動物の命を救ってあげようと心に決めた。
私は絶対に獣医になってみせる。

